2010年8月21日土曜日

タイの田舎の学校の先生 26




生徒たち⑦

私の個人的な意見ですが、今の日本の子供は、権利意識ばかりが発達して、自己主張が強くなんでも楽をしようとする傾向があると思います。PCやインターネットは得意ですが、出来ることは人の作ったレールに乗っかることだけで、自分から何かを作り出そうという意識はないようです。人と違っていることが怖くて、仲間に寄り添うことで自我を保とうとします。したがって、携帯電話などで他人と通信することで自分の位置を常に探ろうとします。他人と何らかの形で繋がっていないと怖いのです。ただ、直接コミュニュケーションを取る事ができない子供が増えています。電話やメール、ブログなど何かのツールを介さないと交流できないのです。こういった日本の子供と、ここクンユアムの子供を比較すると、「まともな子供はこういった文明から取り残されたような僻地にしか存在し得ないのかなあ」と言う気持ちになります。

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生徒たち⑥

ここに限らずタイの田舎の子供(生徒)たちは、親が大好きです。自分たちが、世の中の悪い人たちから、両親によって守られていることをよく理解しています。両親の庇護がなければ、一瞬たりとて生存できないほど儚い存在であることを十分知った上で、それなりの行動をとっています。農家の子供は、学校の休日は、農業の手伝いをしています。家事、炊事、洗濯、アイロンがけ、掃除、子守などもほとんどが子供の仕事です。また、学校の先生を尊敬しています。少なくともそういった態度をとります。タイの文化でしょうか、目上、年上の人の指示には素直に従う場合が多いようです。こういった子供たち生徒たちに接するにつけ、今の我が国の子供とどうしても比較してしまいます。私のように50歳を越えた人なら、こういった子供たちと接するとなんだか「ホッ」とします。自分たちが子供の頃そうであった世界が、ここには残されています。

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生徒たち⑤

徹底的に明るくって、素直で、純情可憐、良い所ばかりの子供たちですが、その普段の生活は我々からは、想像を絶するものです。半分程度の生徒は、町から実家が離れているので、寄宿舎か町に近い親戚の家に寄宿しています。休日は、実家に帰って農作業というのが普通です。実家には、電気が来ていないところもあるそうです。基本的にクンユアム周辺の少数民族の農家では、現金収入がほとんどありません。お金になるとすれば、奥さん(お母さん)が機織(はたおり)で布地や服を作るか、お父さんは、たまにある道路工事などの力仕事などです。農作業も、地主さんに収入の何割かは差し出すので、収入は限られます。水道は簡易水道が有ればいいほうで、井戸か川という場合も有ります。寒い時期でも、お湯で体を洗うのは贅沢です。そのため皆子供の頃からよく働きます。生活が厳しいので贅沢を言っている余裕なんてないのです。日本の子供も、ここで一ヶ月ほど暮らしてみれば如何に自分たちが恵まれているか良くわかることでしょう。

2010年8月19日木曜日

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生徒たち④

こんなに可愛い子供たちですが、試験となるとカンニングしようとします。勉強が出来る子供も、進んで教えようとします。これは民族的に迫害されてきたことで、助け合うことが習慣になっているためではないかと思います。生徒の家はほとんどが農家ですが、農作業は今でも人力中心です。助け合わないと何一つ出来ません。こういった文化では、「試験のときだけ助け合うな」と言ったところで無意味です。今回中間試験では、同民族、同部落出身者同士をくっつけないようにして、勉強の出来る子は、端っこにして教えたくても教えられないようにして試験をしました。結果、ほぼ期待通り、彼女たちの本当の実力がわかる結果になりました。中には出来ない子に教えてもらったのか、同じ間違い方をする子も居ました。可哀想な気もしますが、先生は実力が知りたいのであって、大学に行くためには、みんなで良い点をとっても仕方がないのです。

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生徒たち③

これらの文書は、すべてクンユアムウイタヤ校の生徒たちのために良かれと思って書きました。少しでも多くの人にこの町にいるすばらしい生徒たちの事を知ってもらって、なにがしかの助けになればとの思いです。世の中から取り残されたことで、今でも昔のままの手つかずの純朴な子供たちがまだここに存在します。高校を出ると、何人かは都会に出て悲惨な目に遭うのかと思うと、内心「忸怩(じくじ)たる思い」がありますが、彼らにとってもこれは避けて通れない道です。少しでも多くの子供に高等教育を受けさせてやることによって、「彼らが自分自身で、人生を切り開いて行ける人材に育ってくれれば」との思いです。タイの奨学金は、まったく不足です。能力はあっても、お金がないために大学に行けず良い仕事につけない人が数多く存在します。教育の機会は、誰にでも平等に与えられるべきだと思います。

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生徒たち②

教え始めて、まだ、たった2週間ですが、この子たちが、日本語を覚えてどうするのか判らなくなってきました。おそらく大多数の子供は大学には行けないでしょうから、この近辺で働くしかありません。このあたりには、仕事もろくにありません。考えるとブルーになっちゃいます。それを考えると、今、一番期待できるのは、「ラチャダポーン」と言う生徒です。この子は、日本語の勉強も良くできますし、性格が良く、控え目で大人しくって純真な子供です。どうしても応援したくなります。この子ががんばって大学に行くことができれば、「勉強すれば道が開ける」と言うことが、他の生徒にも判るはずです。昨年もがんばって日本に行って、今、チェンマイの大学に行っている先輩が二人居ます。タイの社会は、弱者には徹底的に厳しいです。社会に出る前に出来るだけの教育を受けておくことが絶対必要です。気持ちばかりが焦ってもどうしようもないですが、可愛い子供たちを見ると心配でなりません。

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時折降る雨の中を屋根なしトラックでは大変ですが、生徒はとても生命力があって、我々ひ弱な日本人とは生き物としての力が違います。彼らが育った環境を垣間見てそう感じました。ここの生活もだんだん慣れてきたようで、生徒の個性も判ってきました。種族間の溝もある程度判るようになってきました。5年生(高2)は、カレン族中心です。同集落出身者は、皆、幼なじみみたいです。こういったことが判るのも、両親にあってみて初めて言えることでしょう。ただ、ほとんどのご両親は、タイ語ができません。こちらはタイ語でさえ片言なのに、カレン語やモン語、タイヤイ語なんてどうしようもありません。同行した算盤教師のタイ歴10年以上のIさんの「片言の方言」もここでは、お手上げでした。
生徒も、同族間ではその種族語を使うので、何を言っているのかさっぱり判りません。タイ語じゃないことだけは判ります。

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連休に、トラックを借りて行った生徒の家について

タイは、土日月火と4日間休日でした。その間、4WDトラックをチャーターして生徒の家庭訪問をしました。僻地の生徒の自宅を訪問するためには、ジープのような4輪車が必要だと痛感しました。4日間疲れましたが、良い経験ができました。生徒は皆、途轍もないところから来ているようです。行けるところだけ行きましたが、雨季に良くある土砂崩れの為、途中で引き返したこともありました。雨季に山岳少数民族の家に行くのは、まさに命がけです。M4の可愛い女の子の家には、結局行けませんでした。その代わり比較的舗装路の近くにあった、彼女のおじいさんの家に行きました。電気もなく、囲炉裏で薪での煮炊きです。壁も床も竹で出来ています。屋根は、棕櫚のような葉っぱで葺いてあります。高床式の床下には豚が飼われています。貴重な現金収入源ですが、殺して食べることもあるそうです。日本で言うと明治以前どころか江戸時代かもしれません。室内は煤で真っ黒です。家具といえる物は布団ぐらいしかありません。日本だったら、ホームレスの人たちのほうがまだ物をたくさん持っているでしょうか。

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家庭訪問と遠足

7月24日からここクンユアムウイタヤ校は、4日間の連続休暇(月火が祭日らしいです)がありました。この休暇を利用して、生徒たちの家庭訪問をしようと思いました。トラックを借り切って田舎を回る計画です。生徒たちに提案すると、意外にも、田舎の実家に帰りたいという子より、この近隣の観光をしたいという子の方が多かったのです。思えばここらの子供は遊びに行くという事自体がありません。日本のような遠足や修学旅行に当たるような行事自体が無いのです。トラック一台借り切っても、一日1000B+ガソリン代です。たったこれだけのことで生徒たちにはとても良い思い出になりました。日本では当たり前のことが、ここでは一生の思い出になりうることにだんだん気づき始めました。
生徒たちは、あいにくの雨でずぶ濡れになりながら、「サヌック」(楽しい)と言い続けていました。

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クンユアム病②

まだ、罹ったばかりの私が言うのもなんですが、「クンユアム病」は、長引きそうです。生徒たちからは、まだ来て1週間も経ってない時から、「次はいつ来るのか」と何度も聞かれました。正月休みには、また絶対来ることを約束させられてしまいました。毎年、休みの度に通いそうな気がします。こんなに何もない町、こんなに遠くて不便な町、道も悪くて、公営バスさえ通っていないような田舎ですが、他のどの町に比べても私には居心地が良いのです。ここに来た当初から、何度も通いそうな予感はありましたが、この病気は治りそうにありません。何もないからこそ、こういった純朴で可愛い子供たちが生き残ったのかも知れません。そう思うと、誰にも教えたくないような複雑な気持ちになります。

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クンユアム病①

タイの田舎暮らしが苦にならない人は、K先生にお願いして、一度だけでもクンユアムウイタヤ校で臨時教師として授業をされてみては如何でしょうか。おそらく「一生の思い出になるのでは?」と、思います。大げさだとお思いでしょうが、やってみればすぐに判ります。私も、その一人です。現地ボランティア算盤教師のIさんとは、毎晩一緒に食堂で一杯やるのですが、そのとき飲みながら話をしていて、これを「クンユアム病」と名付けました。Iさんもその一人ですが、一度虜になったら絶対治らない、不治の病です。私のように免疫のない都会人には、特に即効性があります。そして絶対罹りたい病気でもあります。生まれ変われるならば何度でも罹りたい病気です。

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クンユアムでのボランティア③

今回の私の目的は、もちろん自分の楽しみのためですが、世界中に日本の味方を増やすお手伝いをしたいという物です。お金を上げれば困っている人は、そのときは喜ぶでしょうが、人はすぐに忘れてしまいます。その上、「もっとちょうだい」となるでしょう。お金をあげるより、子供たちの世話を一生懸命してあげれば、この子たちが将来大人になって日本が困ったときに助けてくれるかもしれません。実際、戦争中はここらあたりの人たちに日本兵は、たくさん助けてもらったそうです。私は、井戸を掘ったり看護をしたりはできないので、日本語の先生をしています。でも、ここの子供は、そんな打算を忘れさせてしまう魅力があります。

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クンユアムでのボランティア②

K先生が、徒手空拳で何もないところから軌道に乗せた日本語クラスです。なんとかして成果を上げさせたいです。このまま終わらせるにはとてももったいないほどの、優秀な生徒たちが育ちつつあります。数日授業をしただけでも、「この子、すごいっ!」と感じる子供もいます。ここにこられて、生徒を見られた「日本タイ教育交流協会の木村先生」(私は木村先生には大変お世話になっています)もよくご存じだと思います。昨年、ここで指導されたボランティア教師の、マサ先生(私の先輩です)の気持ちがよくわかります。私には、彼ほどの財力はありませんが、私費を使ってでも日本に留学させてやりたい子もいます。何度も言いますが、生徒たちは「素晴らしい」の一言です。何物にも代え難い魅力があります。生徒たちの成績が良い悪いに関わらず、毎日が生徒たちから元気をもらいに行っているようなものだと思います。

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クンユアムでのボランティア

ここクンユアムは、ご存じかどうか、何もありません。ボランティアの先生方も皆手弁当(衣食住すべて自前)です。私は赴任後すぐに、メーホーソンまで自転車と書庫を買いに行ってきました。日本語クラスは生徒数が少ないので設備が整いません。教科書類を保管する書庫さえ自分たちで賄わないと、学校が買ってくれるのを待っていても埒があきません。我々、後方支援部隊が何とかするしかないのだと、ここに来てみてつくづく思いました。学校の備品さえ自腹で買わないといけないことがあります。買った自転車は、1ヶ月の私の通学用と、その後はK先生に寄贈します。ここで買える自転車は粗悪品ですぐに壊れます。実用に耐える物は、メーホーソンかチェンマイまで買いに行く必要があるのです。クンユアムは丘陵地帯です。変速ギアのない自転車では、通学できません。

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クンユアムという町について(現在)
今は、全くの田舎町です。病院は1箇所だけで、医者は1人居るそうですが、実際は70Km離れたメーホーソンか300Km近く離れたチェンマイまで行かないと重病人は危ないそうです。停電はしょっちゅう有りますし、公営バスもありません。公共交通機関という物が無いのです。メーホーソンまでは、定期バス(ソンテオ)がほぼ毎日出ていますが、これも私営で、気の向くとき営業(お客さんがあるときだけ)です。商店は雑貨屋中心で、一軒だけセブンイレブンが、これまた一軒だけのガソリンスタンドに併設されています。食堂も、数軒ありますが、まあまあの店は一軒だけで毎晩そこで食事をすることとなります。ホテルも、センダオ先生という学校の副校長先生の実家が一軒だけで、泊まれる場所は、他に数軒あるゲストハウスだけになります。一寸した買いのものは、すべてメーホーソンまで行かないとありません。自転車を買おうと思ったら、一日がかりです。インターネットも学校でしかできません。

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クンユアムという町について(歴史)
ここは、旧日本軍がビルマ・インドの英国軍を攻撃するために通過した地点で、敗戦時には、引き揚げ者の死体で白骨街道と呼ばれたほどの、悲惨なところでした。ろくな装備もないまま補給もなく徒歩でジャングルを行軍した兵士は、そのほとんどが帰国できませんでした。そう言った兵隊たちの慰霊碑が、ビルマ国境からタイにかけて沢山存在します。当時の兵隊たちの言葉によると怖い物の順番は「1.牟田口2.マラリアなど風土病3.飢え4.英米軍」だったそうです。牟田口(中将だったかな)とは当時のこの方面の司令官で、無能で無知、作戦能力のないまま昇進した軍人で、兵隊たちが辛苦の上でばたばた死んでいく中、料亭で宴会をしていた人だそうです。ここクンユアムにも、戦争博物館があり、当時の遺品などが展示されています。また、今でも町には、当時の兵隊と結婚していたお婆さんが遺族年金などの保証もないまま、家族や近隣の人の助けで生きています。これは、当時ここに生き残った兵隊は、終戦時逃亡兵扱いになったためです。

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授業風景
今回予定しているM5の生徒たちへの授業は、過去形や、疑問文の復習が主流です。皆は、習ったことばかりを何度もさせられてうんざりですが、語学はこういった退屈な作業の積み重ねです。なんども繰り返しているうちにいつの間にか言葉が出るようになります。最初の2年間基礎作りに我慢できれば、後は、放っておいても上達します。教室では、生徒たちが可愛くって仕方がありません。どうしても判るまで何度も教えてしまいます。その分、優等生には退屈な授業になってしまいますが、別の課題を与えるなどしています。M4は、まだ「ひらがな」「カタカナ」を覚える段階です。何度も読んで聞かせて、書かせての繰り返し、ショートテストでモチベーションをあげます。カタカナを、全員3日で覚えました。一番覚えの遅いアーティットがテストをして欲しいと言います。結果、全員がカタカナ全部書けました。誉めても、誉めても、誉め足りない気持ちになりました。毎日が感動です。

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家庭訪問
連休を利用して、生徒の家庭訪問をしました。4WDをチャーターして雨季の悪路を生徒の家に向かうのはまさに命がけ、実際、道路の陥没により途中で2度引き返しました。北タイのビルマ国境付近では、こういったことも珍しくありません。また、ここは国境地帯のため、道には軍隊の検問所が多数ありますが、生徒たちは、皆、ここの生まれです、検問所の兵隊とも顔なじみで、検問所の兵隊の中には生徒の親戚もいました。外国人だと、色々と検査されたり(麻薬事犯が多いので)しますが、生徒たちと一緒だとまったくのフリーパスです。生徒の家は、農家中心で、カレン族の家は、たいてい部屋か台所に囲炉裏が切ってあります。そこで煮炊きして薫製も作ります。壁は竹製の家がまだ主流です。屋根もこの地方特有の大きな葉っぱで葺いてある家が多く、スレートよりこちらの方が涼しくて良いそうです。実際行ってみて、私もそう思いました。モン族の家は、中国の雲南省あたりの農家そっくりです。木造の家で大きな土間が広がります。竈や石臼なんかも中国と同じでした。タイヤイ族は、ほとんど町中に住んでいる人が多く、タイ人と変わらないようです。カレン族は、今回行けなかった山奥に住んでいる人が多く、冬の乾期に行ければいいなあと思います。